横浜戸塚バプテスト教会 Yokohama Totsuka Baptist Church

日本バプテスト連盟 Japan Baptist Convention

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主日礼拝メッセージ(Sermon)

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2024年5月19日
聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝

【シリーズ 「信仰の実りを求めて」】
「聖霊によって新しく生まれる」
【ペトロの手紙一 1:23~25】
主任牧師 堀野浩嗣礼拝開始牧師

【ペトロの手紙一 1:23~25】
23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
主任牧師 堀野浩嗣

本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝です。聖霊降臨とは使徒言行録2章に記されている出来事で、主イエスの復活と昇天の後、使徒たちを含むおよそ120人の人々の上に天より聖霊が降り、教会の歩みが始まったことを記念するキリスト教会の祝祭です。この日が地上のすべてのキリスト教会の設立記念日と言えます。
聖霊は私たちに主イエス・キリストの臨在(「キリストは生きておられる!」ということ)を教え、キリストとの交わりによる力と新しい命を日々与えてくれます。私たちは今日、イエス様に直接、触れたり、目で見て、声を聞いたりすることはできません。しかし、約2000年前の聖霊降臨の日、主イエスの言葉を信じ待ち望んでいた使徒たちは聖霊を受けて、生きて働かれる主イエスの愛と力に満たされ教会は生まれ、キリストを証しました。私たちも聖霊のお働きによって、日々、キリストの愛と力をいただき、地上の様々な苦難の中で慰めと平安に与り、キリストが私の内に共にいて、神の変わることのない生きた言葉によって新たにされて人生を生きることが出来るのです。そして、そのような神にある希望をまだ福音を知らない人々に証しするために用いられるのです。
あなたを形造り、命を与えてくださった主なる神の愛と救いを求めて、礼拝をささげ、救い主イエスのみ名によって祈るなら、あなたが感じても、感じなくても聖霊はあなたの内に与えられています。一人ひとりに聖霊が降り、神の力と希望に満たされるように心よりお祈りいたします。
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。 (イザヤ40:31)

外掲示板とからし種掲示板の手前の満開の黄色い花は「からし種」の花です。
聖書でに出てきます。
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
(マタイによる福音書13:31-32)

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2024年5月12日 主日礼拝

【シリーズ 「信仰の実りを求めて」】
「魂の救いを受けていますか?」
主任牧師 堀野浩嗣

堀野宣教中

【ペトロの手紙一 1:8~9】 8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

聖書は人間とは「肉体」(body)や 「心」(mind)だけで成り立っているのではないと言っています。旧約の創世記2章にあるように創造主なる神は人を土の塵から形づくり、その鼻に神の息(霊)を吹き入れ、人は生きる者になりました。土の塊にすぎなかった人間に神の霊的息吹が与えられ、創造主との関りで人は生きる者となるのです。そして、そのような人間の全存在を表して「魂」と呼んでいます。
2000年ごろから脳科学という分野が注目され、様々な科学者が人間の心や身体の不思議を脳の現象として把握し、数値化し、制御しようと試みてきました。飛躍的に研究が進みそれまでわからなかったことが多くわかるようになりました。しかし、約20年間の研究で脳科学が行きついた一つの結論は脳をすべて解明できても、人の心や自分とは何かは解明できないし、釈然としない部分が多く残る、ということだそうです・・・。つまり、肉体と心だけでは説明できない目に見えない「魂」領域が人間にはあるのです。そして、「魂」は創造主なる神によって与えられ、守られ、日々新しくされるものなのです。
使徒ペトロはイエス・キリストを救い主と信じる信仰の実りとして、わたしたちは魂に救いを受けていると言っています。そして、様々な人生の試練や困難の中にあっても、魂の救いを神の力と守りによって受けているので、わたしたちの人生には絶えず希望があり、朽ちない財産があり、すばらしい喜びに満ち溢れることが出来るのです。
健康や生活の救い、心の救いを私たちは切に祈り求めます。ですが、主はまずあなたの魂を全存在をイエス・キリストの愛と憐みによって救い、試練の日に聖霊によってあなたの魂に力を与え、生き生きとした希望と喜びに満たしたいと願っておられます。あなたはそれをもう受けましたか? 罪と死に滅びゆく、私の魂を救い、平和をイエス・キリストはくださいます。キリストを信じる信仰の実りとして魂の救いを受け取りましょう。外掲示板

 

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2024年5月5日 主日礼拝

【シリーズ 「教会とは?」】
「神の栄光をほめたたえる」
主任牧師 堀野浩嗣

【エフェソの信徒への手紙1:11~12】
11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。  12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。牧師宣教中

エフェソの手紙の1章の前半には「神の栄光をほめたたえる」という言葉が4回出てきます。神が天のあらゆる霊的な祝福をもって、私たち一人ひとりのクリスチャンと教会を祝福してくださったのは、神の栄光がほめたたえられるためであるというのです。私たちが神に選ばれ、罪をイエスの血潮によって贖われ、一方的な恵みによって神の子とされたのは、神の秘められた計画を実現するためなのです。えっ私が?っと、スケールが大きすぎてピンとこないかもしれませんが、わたしも、あなたも、横浜戸塚教会も、キリストの救いの完成のための大事なピースなのです。だから、クリスチャンと教会はすべての霊的祝福と神の恵みに立って、各々の人生で神の栄光をほめたたえ、神の栄光を現すのです。
同時に、私たちは世の人々が私たちの姿や証しを通して、キリストを知り、神の栄光をたたえるためにフラッグシップモデルの神の作品として造られました。だから、私たちは自分の人生が神の栄光を現す場であると認識していかなければなりません。
パウロはこの手紙を獄中から書きましたが、彼は獄中にあってもキリストに救われた喜びと救いの希望に満ち溢れ、神の栄光を現すことを最後まで第一に考えていました。私たちは神の栄光を中心に人生の計画を立てているでしょうか。また、今日という日も神の栄光を現す場です。一日を始める時、祈りの中で、どのようにして神の栄光を現わすべきか、思い巡らしましょう。
父なる神はキリストの復活によってご自身の輝かしい栄光を現し、キリストを信じる人に聖霊の証印をお与えになり、み言葉の約束の保証をあたえてくださっています。ですから私たちは聖霊の助けと力に祈り求めつつ、私たちの人生の全ての日々において、神の栄光をほめたたえましょう。

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2024年4月28日 主日礼拝

【シリーズ 「信仰の実りを求めよう」】
「いかに幸いなことか」  詩編1:1~6   主任牧師 堀野浩嗣 

詩編1:1いかに幸いなことか / 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 
罪ある者の道にとどまらず / 傲慢な者と共に座らず
2主の教えを愛し / その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

今日は横浜戸塚バプテスト教会の教会設立37年を記念する主日礼拝です。私たち横浜戸塚バプテスト教会は、小さな一つ家庭集会の祈りから始まり、40年前この地で毎週の礼拝を開始し、37年前現在の場所に教会を開設しました。その間多くの方々が共に礼拝をささげ、み言葉と信仰を分かち合い、祈りと奉仕と献金をささげ、教会は恵みの時も、日照りの時も、嵐の時もキリストに支えられ、福音を宣べ伝えて歩んで来ました。それは牧師の能力や頑張りでも、信徒一人ひとりの能力や頑張りにより頼むものでなく、ただ主の恵みであり、教会の主であり、頭であり、真の牧者であられるイエス・キリストの愛のみ業です。イエス・キリストに愛されている横浜戸塚教会をイエスと一緒に愛しましょう。そして、主の教会に結ばれ礼拝をささげ、イエス・キリストに仕える一人ひとりも神様に愛されています。主に愛されたお互いとして、たとえ欠けや弱さがあっても互いに主が愛されるように愛し合いましょう。37年目の教会の歩みの上に主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように。ハレルヤ!
多くの人々が幸いな人生を求めています。しかし、現代社会は、どの世代も多方面でどんなに頑張ってもなかなか確かな実りが見いだせず、多くの人々が閉塞感や疲れや将来の不安を抱えています。聖書はどのような人に主からの幸いと人生の結実が与えられると教えているでしょうか。 1つは「主に向かってまっすぐであること」です。主は絶えず、どんな時も私たちにまっすぐにイエスの愛眼を向けておられます。主の眼差しの中を歩みましょう。もう一つは「主の教えを愛し、そのみ言葉を昼も夜も口ずさむこと」です。「口ずさむ」とは「叫ぶ」という意味もあります。主のみ言葉の約束を信じて、日々自分の人生と心に宣言し、叫び、歩む人に主がそのみ言葉の約束を結実させてくださいます。
【牧師 堀野浩嗣】

 

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2024年4月21日 主日礼拝牧師宣教中

「恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。 新しい土地を耕せ。 
主を求める時が来た。 ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように。」
ホセア書 10:12

《種蒔きの法則》 種を蒔かなければ刈り入れる(実りの収穫)ことはできない。刈り入れたいなら種を蒔かなければならない。人は蒔いた種の実りを刈り取る。肉に蒔く人は肉の実を刈り取り、霊に蒔く人は霊の実を刈り取る。惜しんでわずかしか種を蒔かない人の収穫はわずかで、惜しみなく種を蒔く人の畑は時が来れば豊かに実を結ぶ。

種蒔きの法則は自然の法則であり、聖書が教える霊的な聖書の原理原則でもあります。信仰の実りを求めるのなら、わたしたちは霊的なみ言葉の種と霊の水と肥料を忍耐強く、人生と日々の生活に一人ひとり蒔き続けなければなりません。主に聞き従い種蒔く人の人生に、主は惜しみなく、豊かに良いものを与えてくださるからです。
預言者ホセアの人生は、聖書の多くの預言者の中で最も困難な人生だったと言えると思います。主はご自身のイスラエルと全人類に対する愛を示す預言として、不貞を犯す妻ゴメルとその妻に与えられた3人の子どもたちを無条件の愛で愛し抜くことをホセアに命じました。人間の感情や倫理では到底受け入れられないような命令です。しかし、主はご自身の愛と恵みのみ業により、荒れ果て、暗闇に閉ざされ、何の実りや収穫が期待できないような世界や人生にも必ず回復が与えられることをホセアを通して語られたのです。ホセアは、真の神を忘れ、自己中心に歩む民に対して、主に立ち帰り、主を知るように求めました。ホセア書10:12の「新しい土地」とは、荒れ果て、忘れられ、堅くなり耕されていない土地のことです。それは唯一真の父子聖霊の主なる神を受け入れ信じようとしない、この世界、日本、わたしたちの家庭や社会、そして一人ひとりの心ともいえるかもしれません。しかし、イエス・キリストによって示された主の恵みと愛に心から信頼して、忍耐して、主のみ言葉の種を蒔き、柔らかい地に耕し続けましょう。悔い改め、信じ祈り求める人の人生に主は来られ、恵みの聖霊の雨を惜しみなく注いで、愛と平和と希望の実りを与えてくださいます。外掲示板

 

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2024年4月14日
特別伝道礼拝
「神を信じる価値」」
ダニエル書 3章13-25節
宝田 豊 牧師師宝田豊牧師宣教中

春のオープンチャーチ 特別伝道礼拝へようこそ!

今日は春のオープンチャーチ特別伝道主日礼拝です。また、午後にはチャーチコンサートが行われます。横浜戸塚バプテスト教会ではコロナ前は年に1~2回オープンチャーチを行い、普段教会に来られたことのない方を礼拝にお誘いする機会としていました。コロナウィルスによるパンデミックの影響で、数年間は行うことが出来ませんでしたが、今年再開できて本当にうれしいです。今回は宝田豊牧師とDuo高瀬さんご夫妻をお招きして、聖書のメッセージと神様の賛美する音楽と信仰の証をお聞きします。どうぞ、目には見えませんが、心の目をオープンにして、今日も変わることなく生きておられ、わたしたちと共におられる主なる神様に心を向けましょう。そして、すべてのものを造られ、この上ない愛で一人ひとりを愛してくださる主イエス・キリストの愛を受け取りましょう。今日、礼拝に集われたお一人お一人を心から歓迎し、神様の豊かな祝福を心よりお祈りいたします。                                     主任牧師 堀野浩嗣

宝田豊牧師プロフィール
●東京都出身。クリスチャンであった実兄によって信仰に導かれ、1966年、バプテスマを受ける。1976年に渡米。1983年、クリスウェル大学修士課程を終了。1984年、リチャードソン市でノーステキサス日本語バプテスト教会を始める。2013年、30年の牧会後、対外宣教牧師として、日本とアメリカを往復しながら、日本各地での伝道とテキサス各地の伝道に奔走している。

DUO TAKASE (デュオ高瀬)プロフィール
●1985年結成。バイオリン高瀬真理(まこと)とピアノ高瀬瑞恵(みずえ)の2重奏ユニット。コンサート活動を日本・ヨーロッパ・ニュージーンドで展開。2003年より13年連続米国コンサートツアーを継続中。DUO高瀬の演奏スタイルは、音楽を楽しむ(音を楽しむ)聴衆と演奏者が一体となる空間を提供したいと願っています。これまでにCD8枚をリリース。現在は「ルフトパウゼ」・「とりのうた」好評にて販売中。マキキ聖城キリスト教会音楽宣教師として世界中に福音を届けている。外掲示板

 

 

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2024年4月7日
主日礼拝 
巻頭言
「教会の使命とは?」
マタイによる福音書28章16~20節
堀野浩嗣 牧師堀野宣教中

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書28:18~20)

2000年前にこの世に人として来られた神の子イエス・キリストは30歳ごろに福音宣教の働きを始め、わずか3年余りの期間、神の国と神のご支配を言葉と行いをもって世に表されました。そして、父の御心と愛を成し遂げるため、すべての人間の罪の救いとして十字架に架けられ贖罪の死を遂げられたのです。しかし、キリストは3日目に死よりよみがえり天の父なる神の栄光と復活の希望を表されました。キリストによって神と人間の隔ての壁は取り去られ罪は赦され、天と地は一つにされ、この世界を包んでいる死の力は無力とされ、キリストの復活の希望に満ちて、安らぎ、永遠に生きる人生が与えられています。それが私たちの福音(良い知らせ)であり、この福音へと人々を導くことが、再びイエス・キリストが来られる時までの教会に託された使命です。
私たちは託された使命を自分たちの力や頑張りで成し遂げるのではありません。キリストに与えられた天と地の一切の権能に信頼し、どんな時も主イエスにより頼むのです。主により頼む者に主はご自身の権能を聖霊によっていつも与えて助けてくださいます。
主イエスは教会に命じます。「行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」 「父子聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」 「イエスの命じたことをすべて教えなさい」 あなたはこの命令に従っていますか?今年度どのように従う計画がありますか?スケジュールや準備を考えていますか?私たちは福音を伝えるために信仰に招かれたのです。
イエスの弟子たちの中にも主から託された使命を疑う者もいました。能力がない。時間がない。勇気がない。愛がない・・・。無いものではなく、あるものに目を向けましょう。主はおっしゃいます「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」これだけでは不足でしょうか? 五つのパンと二匹の魚を主にささげる新年度の歩みに今行きましょう!GO!

掲示板外

 

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2024年3月31日
復活祭(イースター)主日礼拝

礼拝 巻頭言

「恐れないで復活を信じなさい」
マタイによる福音書28章1~10節
堀野浩嗣 牧師牧師宣教中

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 (マタイによる福音書28:6~7)

ハレルヤ!復活の主をほめたたえます。2024年復活祭(イースター)おめでとうございます。十字架において罪と罪の力を滅ぼし、死に勝利してよみがえられたイエス・キリストを心から感謝し、その恵みと力に復活祭の礼拝をささげることを通して与りましょう。
4つの福音書はすべて、イエスさまが十字架から三日目に復活してよみがえられたと証言しています。しかし各々の福音書は、イエスさまの復活の出来事を見聞きした者たちは皆、最初は恐れ信じることが出来なかったと告白しています。そして、復活を知らせたみ使いや復活されたイエスさまご自身も何度何度も弟子たちに「恐れるな」「恐れることはない」と語りかけ、イエスさまの復活を信じる信仰に招かれたのです。今日もイエスは「恐れないで復活を信じる」ことに私たちを招き続けておられます。それはどうしてでしょうか?「キリストの復活」はキリスト教にとって最も大切な教えであり、そして「キリストを信じる者の復活」の保証だからです。
目に見える三次元の人間の知識と科学が重んじられる啓蒙主義の価値観では「復活」が起こりえないことをわたしは認めています。しかし、それと全く異なる高次元を治める神の世界、信仰の世界において復活があることを信じています。なぜなら、人間の無力感、劣等感、孤独感、罪責感、死の恐怖を解決することが出来るのは「復活」だけだからです。私たちは目に見える富、知識、奇跡、物質の力で私たちを包み込むこれらの暗闇から救われよう、解決しようとします。しかし、イエス・キリストの復活を心で信じて、天の栄光で照らされた人生を歩み始める時に、すべての暗闇は取り除かれ、私たちの人生に生きて共におられる主イエスの与える新しい命と希望に日々満たされるのです。
【牧師 堀野浩嗣】

 

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2024年3月24日 主日礼拝

礼拝巻頭言

「見捨てられることはない」
マタイによる福音書27章27~46節
堀野浩嗣 牧師

キリスト教会では今日から一週間を受難週と呼びます。主イエス・キリストが十字架にかかり、わたしたちの罪の贖いを成し遂げてくださった尊い十字架の御救いの完成を覚え祈る一年で最も恵みにあふれる一週間です。祈りと聖書のみ言葉の中で、十字架の主を見上げつつ過ごしましょう。特に、29日(金)は受難日です。夜7時30分より受難日礼拝がささげられます。平日の夜ですがご参加くださり、共に十字架の恵みと愛に満たされつつ、主イエスを礼拝いたしましょう。
また、本日午後は2024年度教会予算総会が開催されます。新年度の教会の業が豊かに導かれるように共に祈りつつ、互いにイエス・キリストとキリストの教会への献身の思いを新たにいたしてまいりましょう。そして、次週31日(日)は朝10時30分〜復活祭(イースター)主日礼拝、午後は感謝会(昼食の交わり、ビンゴ、出し物)です。ご一緒に、心から主イエスのご復活をお祝いし、主の永遠の命の豊かなる恵みに与りましょう。

【マタイ福音書27:45~46】 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエスさま十字架に架けられる前、徹底して鞭を打たれ、十字架を負わされドロローサの道を歩ませられ、肉体的に苦しめられました。さらにローマ兵、群衆、祭司長や律法学者、同じ十字架に架けられる強盗、すべての人間から侮辱され、ののしられ、精神的な苦痛と孤独を味わわれました。全ての権威と知恵を神より与えられ、父なる神の完全な愛の中にいるはずの神の子が四面楚歌、八方塞の中で苦しみを受けられ、見捨てられることのないイエスが見捨てられた者になられたのです。
それはこの世に生きて、罪を犯し、今日、苦難や孤独、誰にも言えない、誰にも理解してもらえないような痛みと苦しみの中にある人の友となり、その人をご自身の命によって救うためです。ゴルゴタの丘へと向かうイエスの歩みは、どんな時もわたしの人生を背負い歩まれるイエスの足音です。そして、自分の人生と心を十字架の主イエスにお任せするとき、わしたちの人生に本当の平和と癒しが与えられます。

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2024年3月17日 主日礼拝

礼拝巻頭言

「ユダよ、あなたも贖われている」
マタイによる福音書27章3~10節
堀野浩嗣 牧師牧師宣教中

 

この世の人々は身内や共同体のスキャンダルや不祥事をできるだけ隠そうとします。しかし、聖書は主イエスを裏切った弟子のユダについて目を背けず、正直に伝えます。なぜそのようなことをするのでしょうか? 裏切り者に対する見せしめや、制裁なのでしょうか? わたしはそうとは考えません。ユダの出来事を通して、わたしたちの内に内在する罪の性質にまっすぐに目を向けさせ、それでもイエス・キリストの十字架による罪の贖いと新しい命の約束があることを共同体が忘れないで生きるためです。
ユダは祭司長に銀貨30枚(今の価値で100万円ぐらい)でイエスさまを裏切りました。目先のお金や成功、自分のちっぽけな正義感、イエスの考えを変えさせるため。ユダは自分の行動を後になって後悔しますが、イエスは十字架に架けられてしまうのです。私たちも取り返しのつかない自分の行いや選び取りに深く後悔することがあります。努力やお金で解決できることであればいいですが、人間の力では償えない、解決できないことも多いのです。私たちはその時、ユダのように自暴自棄になり、自分を責め自分で自分の失敗や不出来の責任を処理しようとします。しかし、イエスさまはそのようなユダのため、私のために十字架で贖罪の死をもって、私の罪と罪の力(死)から贖ってくださったのです。

【ローマ6:23】 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

ユダは罪の問題を自分の力で解決しようとしました。それはイエスさまの教えたことではありません。どんな罪も、苦難も、問題も、死の暗闇も、イエスさまに日々自分を捨てて従い、悔い改めてイエスさまの十字架の赦しと愛を受け取るなら、死の暗闇から救われて新しい命をいただくことが出来るのです。私たちも解決の仕方と帰るべき場所を間違わないで生きていきましょう。あなたの帰る場所はイエス・キリストのおられるところです。
現代は人間の行いに過信して疲れ果て、罪と死の暗闇、無力感の中で多くの人々が孤独になり、生きる意味を失い、絶望し、自ら命を絶っています。その人々にイエス・キリストの十字架を伝え、愛の交わりに招きましょう。何もよりも私たちクリスチャン一人ひとりと教会が主の十字架の贖罪と復活の信仰を身に帯びて生きていく者になりましょう。

外掲示板

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2024年3月10日

主日礼拝

「ゲッセマネの心~み言葉は剣よりも強し~」
マタイによる福音書26章47~56節
堀野浩嗣 牧師牧師宣教中

イエスはゲッセマネで父なる神に祈り、裏切る者(敵)に立ち向かう決断をされました。イエスの敵とはいったい誰だったのでしょうか? ユダ、ペトロ、祭司長や民の長老、王や群衆でしょうか・・・。そして、イエスは避けることのできない敵に、どのような方法で立ち向かわれたのでしょうか?

 

【マタイ26:52、56】 そこでイエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。・・・・このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いていたことが実現するためである。」

ゲッセマネの祈りを終えてイエスは受けるべき杯(十字架)と敵に立ち向かう決意をされました。イエスの敵は、剣や棒を持った大勢の群衆でも、裏切りの接吻をするユダでも、剣を振り回す弟子(ペトロ)でもありません。人間の恐れと混乱、罪の性質を用いて、人を神から引き離し、人が滅ぼし合うことへ導くサタン(悪魔)です。人間の権力や暴力、お金や欲望、主義主張や理論・・・サタンは巧みに用いて、攻撃を仕掛けます。でもイエスは、サタンがどうやって攻撃するかをよくご存じなので、その土俵に上がりません。一方で人間はサタンの誘惑や攻撃に弱いのです。イエスのすぐそばで教えを聞き、イエスと共に過ごした弟子たちでさえ、富や権力に屈し、剣を抜いて戦うような人間の土俵で問題解決を図るのです。
一方で、イエスは信仰の土俵(み言葉と聖霊の力)に立ち続けられます。主は言われます。「私が父に願えば、12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださる」。天の父は、無から有を生み出し、すべて必要なものを愛する者に惜しみなく与えてくださるお方です。しかし、イエスが求められたことは、自分の願望が実現し、剣で勝利し、物質に満たされ、世の権力の座に着くことではありません。イエスが従順に信じ求めたことは、父のみ言葉と約束が実現することでした。私たちは今日、主に何を願い求めているでしょうか。自己実現でしょうか。それともみ言葉実現でしょうか。み言葉の約束を信じ、信仰の土俵に立ち、人生に、家庭に、教会に、この世界に神のみ言葉と約束が実現することを求めて、聖書のみ言葉に心と耳を向け、主に祈り続けましょう。

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2024年3月3日

主日礼拝

「ゲッセマネの心~目を覚まして祈れ~」
マタイによる福音書26章36~46節
堀野浩嗣 牧師堀野宣教中

巻頭言

十字架の前夜イエスはゲッセマネ(オリーブ畑)で人類の救いのため十字架を背負うという自分に与えられた使命と向き合われました。私たちにも自分の十字架を背負い、人生の使命と向き合い、踏み出さねばならない≪人生のゲッセマネ≫があるのです。イエスはどのような心で祈られたでしょう?またイエスは私たちにどのように祈り、信仰によって生きる者になってほしいと願っておられるでしょうか・・・?

≪イエスのゲッセマネでの祈り≫(39節)
① 「父よできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」 これは「十字架の苦しみ」と「神のみ怒り」を自分が受けることへの嘆きと絶望の嘆願です。極刑の十字架刑以上の苦しみを受け、さらに人間の罪に対する神の怒りと裁きを自分の命によって贖う以外の方法は無いのか・・理性と感情がせめぎ合う、濃密な祈り。
② 「しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」イエスの祈りは父なる神への従順に徹底して向かう。完全な従順とすべてを神に委ね明け渡す信仰の祈り。

主はペトロとヤコブとヨハネを連れて、悲しみ悶えながら三度この祈りを祈られました。しかし、彼らは眠り込み主と共に祈ることができません。主はペトロらに「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(40~41節)とおっしゃいます。私たちは自分の思いや肉の力が強いので、イエスさまのように祈ることが出来ません。苦しみを避け、ジタバタして、主の御心ではなく自分の御心を求めてしまう性質があります。けれどそのような私たちの弱さや祈ることが難しいことをイエスは良く知っていてくださり、愛し抜いてくだり、共にゲッセマネの心で祈るように招き続けておられるのです。主はおっしゃいます「目を覚まして祈っていなさい」と。 これは眠ったことへの叱責ではありません。霊的な信仰の目を開いて、イエスさまから目を離さないで、祈り続け、どんな苦難の日にも主の御心を祈りの内にみ言葉を通して聞いて決断し、人生のゲッセマネから立ち上がるようにおっしゃるのです。眠ったまま、目を背け悶々と葛藤したままではなく、イエスさまに目と耳と心を開いて、十字架と復活の並外れた勝利の力を受けて歩みましょう.

外掲示板

 

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公開日:
最終更新日:2024/05/19