横浜戸塚バプテスト教会 (日本バプテスト連盟)

Yokohama Totsuka Baptist Church  Japan Baptist Convention

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主日礼拝メッセージ(Sermon)

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2020年9月27日 主日礼拝メッセージ

「幸いな道を見いだせ」
エレミヤ6章13〜21節

 先週火曜日に行われた連合の集いオンライン合同祈祷会で共有された祈りの課題に、ふじみ教会が下記のような祈りの言葉を共有してくださいました。
「《集まり》を大切にしてきた教会が、見えないウィルスと伝えられるニュースによって、集まることや誘うことが難しくなったことに痛みを感じています。連合の諸教会において、その地域に根をはった礼拝が続けられ、飢え渇く人々の慰めとなるように。求められる人と人とのディスタンス(距離)が、心の距離までも離れさせることのないように。この時を生きる子どもたちが極端に恐れることもおびえることもなく成長しますように。」
アーメンです。私たちも10月から新たにコロナウィルスと向き合いつつ、できる力を振り絞って、ウィルスに対する自制と制約の中にも、神と人、人と人が豊かに交わる喜びと感謝にあふれる礼拝をささげましょう。困難な状況の中で主により頼む者には、主の恵みと愛が豊かに注がれます。今週から2020年度後半のスタートです。

皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。」(13~14節)
ヨシヤ王の宗教改革により、ユダの民は表面上、偶像礼拝を捨て、神殿で律法に倣った礼拝を行い、主に立ち帰ったように見えました。しかし、主は、それを心からではなく、その場しのぎで目の前の問題から目を背け、人の好意や利得のためではないかと指摘されるのです。
主がわたしたちに求めておられるのは心からの悔い改めと主への信頼であって、外見上の行いや献げ物ではありません。
主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』 しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」(16節)
主はイスラエルの民に勇気を振り絞って立ち止まり、危険や問題を直視するように言います。危機から目を背け、安楽短で迷いと誤った道を進み続けるよりも、危機を直視し主を盾にして立ち向かいましょう。一時、犠牲を払ってでも、進むべき主の道を見出し、その道を行くほうが、魂に安らぎがあります。 幸い(ヘブライ語 アーシャル=「まっすぐ」)。いつもまっすぐに主に立ち帰り、主の言葉に聞き従う歩みこそ幸いな道。

「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。
あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。
あなたの戒めから迷い出ることがないようにしてください。」 詩編119:9~10

 

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2020年9月20日 主日礼拝メッセージ

「悲しみは喜びに、憂いは楽しみに変えられる」
エレミヤ31章7〜14節

 ▷ をクリックする事により、メッセージを聴くことができます

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 今日からしばらくの間、エレミヤ書を読んで参ります。エレミヤは紀元前6世紀、南ユダ王国のヨシヤ王の治世に預言者として、主に立てられました。20歳前後の若き預言者エレミヤが主の言葉を語った時代は、祖国南ユダが崩壊し、バビロニアに捕らえられ移されていく最悪の時代でした。しかもエレミヤが南ユダの王と民に語り続けた主の言葉は、そのほとんどが厳しい裁きの言葉でした。イスラエルを愛し続けてくださる主への背信、偶像礼拝、何度となくあった悔い改めのチャンスに心頑なにし、富中心、人間中心に歩む民に対する主の怒りと憤りの言葉です。特に表面的な信仰や耳障りの良い言葉で人々を安心させようとする王や宗教的指導者たちに対する警告です。ですがエレミヤ書は裁きだけが書かれているのではありません。十字架の裁きがあり、復活の希望があるように、主なる神は裁きと混沌の先に新しい計画と主が注がれる愛と救いのメッセージを私たちに与えてくださっています。
エレミヤ書は全体で52章ある長い書物ですが、今日読む31章はその中でも中心的なメッセージが語られています。29〜31章はバビロニアに戦争で敗れ捕虜となり嘆き悲しむ民に向けて、主なる神の真意についてエレミヤが書いた手紙です。

主なる神は何をしようとしておられるのか?
1「主はヤコブを解き放ち、彼にまさって強い者の手から贖われる」(11節)
主は真の牧者であり、私たちを愛し、ご自身の命をささげて、守られます。そして、嘆きと悲しみの淵で主により贖われた人の魂は潤った園のようになり、再び衰えることはありません。自分で握りしめ、壊し、建て、抜き、植えることを忙しく繰り返す人生を断念し、主にすべてを委ねる人生を選び取りましょう。 エレミヤ29:10〜11参照

2 「そのときおとめは喜び祝って躍り、若者も老人も共に踊る。
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに変えて喜び祝わせる。」
(13節)
「そのとき」とは主の民が回復される日です。主がキリストによってすべての罪を贖い、悪しきものに支配されていた人生の城郭に主のみ旗が掲げられる日です。
主がキリストによって成し遂げ、聖霊によって与えてくださる神の国の喜びです。私たちは「主の祈り」で、御国が地に来るようにと祈ります。御国は、将来、天においてでなく、今、この地にこそ来るのです。事実、今も生きておられるキリストと共に来ています。ならば悲しみは喜びに、憂いや嘆きは楽しみに変わります。

 

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2020年9月13日 主日礼拝メッセージ

看板
「キリストで人生の結末が変わる」
ルカによる福音書 23章32〜43節

 ▷ をクリックする事により、メッセージを聴くことができます

先日、10代で二冠を手にした藤井聡太棋士は常に数十手先を読み、様々な可能性を熟慮しつつ、奇想天外な手も繰り出して、勝利しておられるそうです。しかし、熟慮していろいろな可能性を考えて10手先、20手先を読んで、新しい技を身につけても、勝ち負けは最後まで分かりません。同じように、残念ながら私たちの人生の結末も、最後の最後まで誰にもわかりません。計算通り、思ったようにはならないものです。しかし、聖書は主イエス・キリストを救い主と信じて、キリストの十字架の血潮を受け取ったすべての人の人生に与えられる素晴らしい、恵みの結末を教えています。

イエス・キリストと共にゴルゴタの丘には二人の罪人が十字架に付けられました。一人はイエスを最後まで罵り、嘲り、自分の罪に目を向けようとはしません。しかし、もう一人の罪人は最後の最後に、傍で十字架に付けられてもなお、罪人の赦しをとりなし祈るイエスを神の子メシア・キリストと告白したのです。そして、イエスさまに「御国においでになる時、私を思い出してください」と主の赦しと憐みに信頼して、祈り求めたのです。この罪人に主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言われました。
一つの信仰告白で、十字架に架けられなければならない罪人の人生の結末が一瞬にして変わってしまったのです。彼は死の間際で、地獄からパラダイスに移されたのです。自分の失敗や弱さや罪の呵責に苛まれ続ける人生から、主によって罪を赦され、主の支配の内に生きる平安と喜びに入れられて人生を締めくくったのです。
今日、あなたの信仰一つで、地獄にもなれば天国にもなる場面があるかもしれません。主イエスがあなたに微笑みかけておられます。つまらぬ誇りやこだわりや過去を捨てて、イエスをわたしの主、救い主と告白して、主の赦しと憐み、主の十字架の血潮の力にあずかりましょう。

77歳で現役を引退した「ひふみん」の愛称で有名な加藤一二三棋士は、約60年の棋士人生で通算1324勝、1180敗だったそうです。勝ち数もさることながら負けた数もたいしたものです。人に勝つ力ではなく、負けから立ち直る力が「ひふみん」を生かしたと言えるでしょう。イエス・キリストは十字架によって人を負けた苦しみや絶望から救い、新しくして立ち直させる復活の力を、悔い改めて、主に向かい祈り求める人に与えてくださいます。そのような霊的なキリストとの関係こそが、楽園であり、パラダイスなのです。

メッセージ中2

 

公開日:
最終更新日:2020/09/26