横浜戸塚バプテスト教会 Yokohama Totsuka Baptist Church

日本バプテスト連盟 Japan Baptist Convention

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主日礼拝メッセージ(Sermon)

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2022年9月25日主日礼拝
「主の愛を待ち望む人」
詩編 33章13~22節掲示板

見よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い 飢えから救い、命を得させてくださる。 
 詩編33編18〜19節
Behold, the eye of the Lord is on those who fear him, on those who hope in his steadfast love, that he may deliver their soul from death and keep them alive in famine. (Psalms 33:18〜19)

昨日でウクライナでの戦争が始まって7ヶ月が過ぎました。戦争の長期化、新型コロナパンデミック、地球規模の異常気象などが複雑に影響し、世界中で食料が高騰し、アフリカや中央アジアを中心に深刻な飢餓の危機に直面しています。戦争や紛争の一日も早い解決のために祈りましょう。また、主が与えてくださる糧を人間が正しい心で分け合えるように祈りましょう。
しかし、先週の礼拝の箴言4章23節のみ言葉にもありましたが、私たちの命の源は心にあり、心は主の霊によって満たされ、新たにされ、潤されます。それゆえ、肉の糧や日々の経済と同時に、主がくださる霊的な糧を求め、それに与ることも大切です。

王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。詩編33:16〜17

 人は自分自身の状態や環境に対して、もっとこうならなければならない、強くならなければ、変わらなければ、頑張らないと、成長しなければ・・・といつも焦りを覚えてしまいます。なぜしょうか? それは、他人の目を恐れ、自分自身や他者、人に期待しているからです。今日、神様が私たちに望まれることは、それらのことから解放され、ただ主だけを畏れ永久に離れることのない主の慈しみ(揺るがない愛 steadfast love)を待ち望む、主に期待を置く信仰です。

主を畏れる人
 「主が仰せになると、そのように成り。主が命じられると、そのように立つ。」 詩編33:9

主の愛を待ち望む人
「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。・・・」  
  ローマの信徒への手紙8:18〜39

【牧師 堀野浩嗣】堀野師宣教中

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2022年9月18日主日礼拝
「主を慕い求める心」
箴言 4章20~27節堀野説教中

わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。
見失うことなく、心に納めて守れ。
それらに到達する者にとって、それは命となり全身を健康にする。
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。  (箴言4章20〜23節)

「心」はどこにある? そこに命の源が!
 近年、医学や科学の研究が進む中で心の健康、メンタルヘルス、マインドフルネス(マインドコントールなんかも)・・・が注目されるようになり、ストレス過多社会の中で小さな子どもから高齢者に至るまで「心」が人間の健康や生活に大きな影響を及ぼしていることが分かってきました。そして、多くの人が「心」を良くしたい、整えたいと考えているようです。

 聖書は今から3000年以上昔から人間の心に焦点を当てています。そして、心こそが人間の生命、健康や生活の中心であると言うのです。聖書の「心」(レブ)についてある人が次のように説明しています。「心には自分の霊(人格)の王座がある。肉体の神殿の至聖所である。ここは貯水地であり、ここから命の泉が湧く。」ですから、私たちの最大の関心事は、自分の心を見守ること、そして、新鮮に、きれいに保っていくことなのです。しかし、心は自分では触れられません。肉体や感情によってコントロールすることは難しく、ただ主の霊によって養われ、整えていただき、絶えず清くされねばならないのです。


曲がった言葉をあなたの口から退けひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。
目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。
どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。
右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。    (箴言4章24-27節)

心を守り、健やかなるための知恵
1 「わが子よ」と呼びかける創造主なる神を信じ、「わが父よ」と慕い求める
2 霊なる聖書のみ言葉を聴き、心に蓄え、口ずさむ
3 十字架と復活のイエス・キリストを我が主、我が基(もとい)と告白する
4 主の再臨(到来)を待ち望み、聖霊に導かれて歩む

目の前のイエス・キリストを信仰の目でまっすぐに見つめ、慕い求めるとき、わたしたちの心に主の霊があり、絶えず心は新しくされ、主がその道を安全に守り、平和と喜びに満たしてくださいます。
【牧師 堀野浩嗣】掲示板

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2022年9月11日主日礼拝

「本当の豊かさ」
ルカによる福音書12章13~21節

説教タイトル

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12章15節)
 私たちはこの聖書箇所で、「貪欲」という言葉の意味について、発想の転換を求められます。イエス様がここで「貪欲」と言っておられるのは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなくて、自分が持っているものによって自分の命を得ることができる、つまり生きることができると思っていることなのではないでしょうか。
 私たちは、自分の分を超えて人のものまで欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、自分が何を持っているかによって人生が決定づけられるとは思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしています。イエス様はそれを、「貪欲」と呼んでおられるのです。あなたの心はそのような貪欲に支配されているのではないかと、イエス様は私たち一人一人に問いかけておられるのです。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。(ルカ12章20-21節から)
 神の前に豊かになるとはどういうことでしょうか。私たちは神様に喜ばれるようなよい行いに励むこと、善行を天に積むことと理解しがちです。神様の前に良い行ないを積み上げるという感覚です。
しかしながら、「神の前に」と訳されているところは直訳すると「神の中へと」または「神に向かって」となります。神様との関係を意識した言葉です。
 「自分のために富を積む」も直訳すると「自分自身へと」という意味が近いのです。自分の持っているものによって生きることができると考えて、この人は自分自身へと富を積んだのです。
 本当に重要なのは、神の前に豊かになること、言い換えると神様との関係における豊かさを求めることです。その豊かさは、私たちの良い行ないによって得られるものではありません。神の前に豊かになるとは、イエス様によって、その十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じて、それにあずかって生きることです。そこに、貪欲から解放された新しい生き方が生まれるのです。
【神学生 小川紀良きよし】

小川神学生宣教

 

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2022年9月4日主日礼拝

「キリストの栄光の中に」
ヨハネによる福音書17章1~5節

宣教中2

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。  ヨハネによる福音書17:1〜3

永遠の命とは?
ヨハネの福音書はイエス様がゲセマネの園で十字架につけられる為、逮捕される直前のキリストの祈りを私たちのために書き記してくれています。全ての人は、本来、エデンの園で父なる神様から受けるはずだったいのち、祝福、愛を、神に背いた罪のために受け取れなくなり、父なる神と離れ離れで生きているのです。しかし、イエスはそのような私たちを父なる神との親しい交わりにもう一度結び合わせるため、この世に来られ、私たちの代わりにその罪を十字架で贖ってくださり、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。
永遠の命を受ける方法、それは創造主なる父なる神を知り、救い主イエス・キリストを知ることです。ギリシャ語の「知る」(ギノースコー)はただ知識として知っているとか見聞きしたというのではありません。夫婦や親子や友人の親しい人間関係において知り合っていく時に使われる言葉です。体験的に失敗や成功を繰り返しながら深く互いを知り合う。そのような関係を父なる神様とそして子なる救い主イエス・キリストと生きていくとき、私たちは永遠の命に生かされて生きるのです。永遠の命は、何か目に見える物、富や宝、健康や幸せではなく、生きておられる主との関係を生きることそのものなのです。日々の礼拝や祈りの生活の中で御霊によって主を知ります。そして、キリストの教会の交わりの中で生きて働かれるキリストの証を見聞きし、互いに愛し合い主を知るのです。

わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。      ヨハネによる福音書17:4〜5

キリストの栄光の中に
目の前にあるものを正しく認識するためには光が必要です。暗闇の中では何も認識することができません。父なる神と救い主キリストを知るために、神はキリストに栄光を与えました。しかし、それは世の誉や賞賛の人間的な栄光ではありません。それは十字架の栄光です。敗北と苦しみのしるしである十字架の死と苦しみをイエスが引き受け、私たちが救われるためです。主イエスは人には到底できない神の赦しと愛を十字架で表して神の栄光を私たちに示されたのです。どんなに暗闇が満ちても、いや暗闇の中でこそ、キリストの栄光は輝きます。何が私たちを救い、生かし、慰め、励ますのか?キリストの栄光によって正しく見つめましょう。そして、キリストの栄光の中に私たちも光の子として歩みましょう。
【牧師 堀野浩嗣】掲示板

 

 

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公開日:
最終更新日:2022/09/25