横浜戸塚バプテスト教会 Yokohama Totsuka Baptist Church

日本バプテスト連盟 Japan Baptist Convention

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主日礼拝メッセージ(Sermon)

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2021年10月17日(日)召天記念主日礼拝
霊の目でキリストを仰ぎ見る
ヨブ記 19章23〜27節

 先週から開いております旧約聖書のヨブ記は人生の理由なき苦しみの意味とその苦しみの中に神から与えられる救いと回復について記されています。
ヨブは無垢で正しい人でした。そのヨブにサタンは苦難と不幸を与え試そうとします。ヨブは1日で財産を根こそぎ奪われ、10人の子どもたちを失います。さらに自分自身
も重い病に見舞われます。それでもヨブは神を呪うこと疑うことをせず、主なる神を褒め称えたのです。
しかし、清廉潔白で無垢な信仰がヨブの苦しみを完全に癒したわけではりません。ヨブは苦悩し、3人の友人が励まし諭しに来ますが、人の言葉を持ってしてもヨブの苦しみ
は癒されません。自業自得、因果応報で解決や理解できることばかりではないからです。人の死や別れ、災難は時になぜ自分なのか、なぜ自分の家族なのかと問いたくなるよ
うな、どれだけ人間の言葉や知識で考えても理由が見つからない事があります。そして、ヨブは神が自分の人生に与えた苦難の理由を黙して語ってくださらないことに苦しみ
、彼は神からも、家族からも、友からも見放され見捨てられたと嘆くのです。

25わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。26この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであ
ろう。27このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。              ヨブ記19:25〜27

ところがヨブは極限の苦しみの中で、いつの日か救い主が人となって来られ、苦しみから完全に贖い(買取、賠償)、救い出してくださることを「知っている」と言うので
す。私たちは、その方を十字架に架かられたイエス・キリストとはっきりと知っています。この知があらゆる苦しみに耐えさせます。苦しみには意味がある、という悟りに導
いてくれます。

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
マルコ15:34
神の子イエス・キリストは私たちの全ての苦しみを十字架で担い、贖いを成し遂げました。このイエス・キリストを知り、キリストの十字架を知るとき全ての嘆きはいやされ
ます。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにお
いて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示
された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。        ローマの信徒への手紙 8:35〜39

ヨブは苦難の中で忍耐して、主を待ち望み、霊の目、信仰の目を開かれて贖い主であるイエス・キリストを仰ぎ見ました。それによって本当の癒しと慰めを得たのです。

 

 

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2021年10月10日(日)主日礼拝
無垢な正しい人の苦しみ
ヨブ記 2章1〜10節宣教

 この世に悪が存在するにも関わらず、なお神が正義だと、なぜ言えるのか、あるいは正しく歩む人に神はなぜ苦しみや災難を与えるのか。神が愛であるなら、なぜ種々の災難、病い、事件事故、戦争、自然災害、悪・・・困難や嘆きに世界が満ちているのか。いつの時代にも人間が直面する普遍的な苦しみについてヨブ記は私たちに問いかけ、無垢で正しい信仰者のヨブの歩みを通して苦難の先にある主からの希望と回復の光を示しています。

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」       ヨブ記2:3

主は、ヨブの潔白と誠実を、サタンに自慢するほど賞賛し喜ばれました。サタンがヨブにもたらした理由なき幾多の災いにも、ヨブは信仰をまっとうしたからです。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)

「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ記2:10)

これが主に愛されている者の確信であり、主の恵みに信頼して生きる者の平安です。災いを受けても主の愛は変わらず、祝福は必ず回復されます。ましてや主が恵みより与えたもう永遠のいのちを奪われることはありません。どんな嵐や苦難の日にも淡々として主だけを見上げ信頼して動かずにいれば、事態は主の御心に沿って落ち着きます。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
         (コリントの信徒への手紙 一 10:13)

しかし、聖書はもう一つのことをヨブ記3章以降を通して私たちに示しています。私たちは苦難の日にサタンの思惑通りに行動してしまうということです。信仰が揺らぎヨブの友人やヨブ自身も、人間の悟り、言葉、知恵、議論や頑張りで苦難を乗り越えよう、苦しみに意味を見出そうと奮闘します。しかし、彼らはそれによって仲違いし、くたびれ果てます。
主への賛美と祈りと信頼にだけ立ってさえいればよかったのです。どんな試練も苦難も、サタンの攻撃も主イエスが盾となって私の代わりに戦われます。天においては勝利が既に与えられ、主イエスが聖霊によって新しい命を注ぎ必ず回復の日が備えられています。だから苦難の日にも主を見上げ、ヨブのようにひたすら、主を褒め称えましょう。

 

 

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2021年10月3日(日)主日礼拝
ローマの信徒への手紙4章13〜25節
希望するすべなき時に望みを抱く看板

 10月に入り全国に出されていた緊急事態宣言が解除されました。さまざまな感染対策が効果的に用いられコロナウィルスの終息を願うばかりです。しかし、多くの研究者は冬季には第6波の到来、また新たな変異株への警戒も指摘しています。先のことは分かりませんが、感染が落ち着いている間は心を休め教会についどい、神様の臨在を親しく求め、兄弟姉妹との交わりを楽しみましょう。お一人お一人の今年度後半の歩みの上に主の守りと導きをお祈りいたします。

さて、「希望」と言う言葉を辞書で引くと「何かが現実となることを願望し、それに向かって行動すること」とあります。皆さんは今日、希望を持っているでしょうか? 2016年に東京大学の研究グループが日本人にアンケートを取ると5割強の人が、希望がないと答えたそうです。物質中心主義、経済至上主義の日本社会で人々は疲れ果て、自分の出自や境遇、周りの状況、富や能力や資質、それが希望の源と考え、自分には希望などないと結論付けているのです。しかし、聖書は、どんな人にも、どんな時にも、持っていても持っていなくても、できてもできなくても、たとえ全てを失っても希望はあると言うのです。

希望するすべなき時に望みを抱く信仰

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。       ローマの信徒への手紙4:18

希望を失ってしまうような困難な状況の中にあっても、なおも望みをもって不可能を可能にされる神を信じる。信仰の父アブラハムのように、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じる信仰によって希望は与えられる。希望は神から来る!
この世の人間的な希望に目を凝らして、目に見える事柄に振り回されないで、信仰によってどんな困難な状況の中にも希望を見出しましょう。私たちを心配に陥らせ、望みを砕こうとするサタンの火の矢から信仰の盾(エフェソ6:16)によって守りをいただきましょう。

主イエスの十字架と復活を信じることによって希望は与えられる

しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。            ローマの信徒への手紙4:23〜25

アブラハムは100歳、妻のサラは90歳でイサクが産まれた。人間的には起こり得ない、あり得ないこと、人知では悟り得ないことです。これはキリストの十字架による罪の贖いと復活も同じです。しかし、主イエスの十字架の贖いと復活を信じることによって、神の義が与えられ、神の義によって希望が生まれ、希望が絶えず現状を変えていくのです。現状が希望を生むのではありません。キリストから来る希望があなたを励まし、変えるのです。

 

 

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2021年9月26日(日)主日礼拝
エフェソの信徒への手紙 4章1〜16節
キリストに向かって成長する

 今週から10月に入ります。9月末に延長された神奈川県や他の県に発令されている緊急事態宣言が解除されるかどうか、まだはっきりしない状況です。そのような中で今年度の後半を迎えていくことに心配や不安が募るかもしれません。しかし、何があろうと落ち着いて、主イエスの愛に信頼し、希望と平和の源である主イエスを見上げて歩んで参りましょう。一人一人の礼拝と信仰の歩みに主が報いてくださり、お一人お一人の上に霊的信仰の実りが豊かに与えられるようにお祈りいたします。
主イエスは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「良い実を結ぶため、あなたがたはわたしにつながっていなさい。」と命じられました(ヨハネ福音書15章1〜17)。また、使徒パウロは手紙の中でクリスチャンは「キリストの体」であると繰り返し教えています。主イエスによって新しい命をいただいたクリスチャンは皆、キリストの体に結ばれ、神から与えられた賜物を用いてキリストの体となる使命と任務を与えられました。そして、この一つの任務に仕える時、私たちは新しい命、喜び、希望、平和の実を結実させるのです。しかし、これは現代人には大変やっかいで、面倒な任務です。信仰の実はどんなに努力しても自己完結せず、個人プレーでは実らないということ
だからです。

キリストに結ばれて成長する
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。   エフェソの信徒への手紙4:2〜6

わたしたちの体と心は主につながっていますか? キリストに結ばれるとは、この社会の人間基準や評価に揺さぶられることなく、造り主なる神の基準に立ち、義なる神の目で判断し、十字架と復活のキリストの愛と救いに信頼して将来を見渡すことです。人生も、家庭も、職場も、人間関係も、極めて良いとおっしゃる創造主の基準と十字架でわたしたちの罪を贖い、新しい命をお与えになるキリストの愛と憐れみに係留しましょう。

キリストに向かって成長する
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。          エフェソの信徒への手紙4:15〜16

キリストはこの世界の全ての人々に神の愛を伝え、罪から救うために何をされたでしょうか? 徹底して、罪人を愛しました。全ての人の僕となってへりくだって、仕えられました。それによってこの世界を救われたのです。キリストに向かって成長するとは、へりくだり愛する人になり、仕える人になることです。主の招きに応えて、一つに結ばれ、キリストに向かって成長し、信仰の結実を味わいましょう。

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公開日:
最終更新日:2021/10/16