今週のお花 2025年2月23日
2025年2月23日 主日礼拝
祈りと御言葉
使徒言行録 6章1~7節)
信徒奨励 井東元
日曜ゴスペルメッセージ20250223
https://youtu.be/VcwTxm84Gvo
宣教中の井東元
まず、最近戸塚教会に来られるようになった方もいらっしゃるので自己紹介をさせてください。
私の母教会は山梨県の富士吉田バプテスト教会です。大学院を修了し、就職したことをきっかけに岡山バプテスト教会に移りました。その後、仕事を続ける中で神学校に行きたいという思いが与えられ、東京神学大学に編入学いたしました。しかし、家族の事情などがあり、神学を学ぶことが困難になり、牧師を目指す道はいったん置いて、現在はアスベスト分析の仕事に従事しています。
この仕事は、会社でも続かない人が多い厳しい仕事です。しかし、私はこの仕事を神様から与えられた重要な仕事として捉えています。アスベストは、吸い込むと肺がんなどの深刻な健康リスクを引き起こす物質です。そのため、アスベストの調査や分析、適切な管理は、神様がお造りになったこの世界を守る重要な役割だと考えています。私たちは、神様から託されたこの世界を、責任を持って管理する務めがあるのです。
また、私には二人の娘がいます。二人とも重度の知的障害を持っており、多くのケアを必要としています。しかし、この子どもたちは神様が私に与えてくださった大切な存在です。私は、娘たちが「自分は愛されている」と感じながら成長してほしいと願っています。幸いなことに、娘たちは教会をとても楽しみにしていて、家でも「教会!教会!」と言って喜んでいます。教会で過ごす時間が、娘たちにとって大きな喜びとなっていることを、私は心から感謝しています。娘たちが日々成長していく姿を見ることは、私にとって何よりも大きな喜びです。
私は、戸塚教会で1期2年間、執事としての働きをさせていただきました。執事に選ばれたのは初めての経験で、自分には欠けたところが多いと感じることもありました。しかし、その中で学んだことは、教会の働きは一人で成し遂げるものではなく、互いに助け合い、支え合いながら進めていくものだということです。私たちは、それぞれに与えられた賜物を用いて、より良い教会づくりに向かって歩んでいきたいと心から願っています。
また、私たちの教会は、逗子第一バプテスト教会など他の教会と連携し、共に福音を宣べ伝える取り組みを行っています。これは、日本バプテスト連盟の一員として、様々な教会の方々と励まし合い、奉仕に励むことの大切さを教えてくれます。教会は、単独で存在するのではなく、他の教会と共に、キリストの体として一つとなることが求められています。
本日は、使徒言行録6章1-7節を通して、祈りと御言葉に支えられた教会の姿についてお話しさせていただきます。
この箇所は、ステファノたちが使徒たちを助ける者として任命される場面です。当時の教会は、現在の私たちの教会のように、教会規程が整えられ、主任牧師や協力牧師、宣教師といった職分が確立されていたわけではありませんでした。ステファノたちの立ち位置は、現代の執事に近いものではありますが、当時の教会の役割はもっと流動的で、柔軟なものでした。しかし、この箇所でルカが伝えている祈りと御言葉を大切にするメッセージは、執事の任職に際して必ず今回の箇所を読む教会もあるように、現代の私たちの教会にも多くのことを教えてくれます。
それでは、今回の箇所に入っていきたいと思います。
この箇所では、弟子の数が増え、ギリシャの文化の影響を受けたユダヤ人(ヘレニスト)から伝統的なユダヤ文化に根ざしたユダヤ人(ヘブライスト)に対して苦情が出たことが記されています。ここで使われている「弟子」という言葉は、福音書ではイエス様の直弟子を指すことが多いですが、使徒言行録ではイエス様を信じる人々全体を指しています。4章4節では、信じる者が5000人に増えたと記されており、その後にさらに弟子の数が増えたとあることから、エルサレム教会には相当な人数が集まっていたことがわかります。
この教会には、ギリシャ語を主に話すヘレニストと、ヘブライ語やアラム語を主に話すヘブライストが共に礼拝を守っていました。パウロはギリシャ語をベースに活動したヘレニストでしたが、有名なラビ、ガマリエルのもとで学び、自分を「ヘブライ人の中のヘブライ人」と語るほど、ヘブライストとの交わりも深かったことが聖書から伺えます。このように、ヘレニストとヘブライストは完全に分かれて行動していたわけではなく、互いに交わりを持ちながら信仰生活を送っていました。
しかし、ここで問題が起こります。ヘレニストの人々から、自分たちの仲間のやもめたちが軽んじられているという苦情が出たのです。この「苦情」という言葉は、大きな声でクレームをつけるというよりは、ブツブツと文句を言うようなニュアンスです。ルカは、やもめたちが「習慣的に」軽んじられていたと記しており、これは使徒たちのリーダーシップが、弟子たちの数の増加によって行き届かなくなっていたことを示しています。
そのことをヘレニストたちのつぶやきを耳にして自覚した弟子たちが7人の助け手を任命しようと提案します。2節では神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくないとあります。食事の世話というのは食卓というのもありますが、教会の財務管理のようなより広い範囲の奉仕全般を意味しうる言葉です。注解書の説明ではルカがここで御言葉の奉仕と祈りが食事の世話より重視されていると言われることが多くあります。もちろん使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念すると書かれているわけですから、それが非常に重要視されていることを疑う余地はありません。使徒言行録の中ではここで選ばれた7人が食事の世話のリーダーシップを取っているところが直接は描写されず、むしろ御言葉の奉仕に従事していることが描かれることが多いことも根拠になりうるかもしれません。ですが食事の世話についてもルカは高い重要性を持っていると考えていたとわたしは感じています。この問題を考えるためにルカによる福音書を参照しながら考えたいです。初代教会の歴史の中でマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書がセットだと考えられるようになり、今の私達が手にしている聖書の形になっています。しかしルカによる福音書、使徒言行録いずれもルカが書いたものであり、テオフィロに捧げると書かれているわけですから、本来この2つはセットなのです。学問的にはルカ文書といってまとめて論じられることも多いです。御言葉の奉仕と食事の世話の関係について考えることのできる箇所は他にもありますが、ここではマルタとマリアの箇所を考えてみたいと思います。マルタとマリアの箇所ではよくマルタが力を入れていた食事の世話よりもマリアがイエス様の言葉に耳を傾けていたことのほうが良いことだと説明されることが多いです。しかし以前のメッセージで堀野先生が言及されていたように、マルタの問題は食事の世話それ自体というよりもその奉仕を思い煩いの中でしていたことをイエス様は指摘されたのでした。そのようにせっかく良い働きをしていても思い煩いで信仰の実を結ぶことが難しくなってしまうこと、これが良くないのです。さらになぜやもめへの支援が取り上げられているのかと言えば、それは申命記14章29節「 あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。」という言葉があり、それは旧約聖書の御言葉としっかりつながっているからです。食事の世話は直接御言葉を解き明かすものではないでしょう。ですが弱い立場に置かれている人々の助けになることは御言葉の実践であり、決して重要性の低いものではありません。横浜戸塚バプテスト教会でも能登半島地震のチャリティーランチをやっておりますが、そのようなことは御言葉と比較して重要度の低いことではありません。弱い立場に置かれている人々のために何ができるだろうと考えて実践していくことは御言葉の実践だからです。
5節ではこの提案に対して一同と書いてありますが、教会に集う人すべてが賛成したということが書かれています。ここで選ばれた7人のうち、ステファノとフィリポについては、後にメッセージを語り、奇跡を行ったことが使徒言行録に記されています。しかし、他の5人(プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ)については、この箇所以外に詳しい記述はありません。しかし、彼らの名前を調べると、一つの共通点が浮かび上がります。それは、7人全員がギリシャ語の名前だということです。
この人選には、教会が本気で悔い改め、弱い立場にある人々を大切にする決意が表れています。問題の発端がギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちに対する不公正な扱いであったことを考えると、ギリシャ語名を持つ7人を選ぶことで、彼らが真剣に問題に取り組もうとしたことがわかります。特に、アンティオキア出身の改宗者ニコラオは、もともと異邦人であったと考えられ、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の橋渡し役として期待されていたのでしょう。
この7人は、「信仰と聖霊に満ち、評判の良い人々」として選ばれました。「評判が良い」とは、彼らが信仰者として素晴らしい人物だと証言する人がいたという意味です。聖霊という言葉は、もともと「風」や「呼吸」を意味します。信仰深い人々の間には、聖霊の風が吹き抜け、その存在が周囲の人々に良い影響を与えるのです。評判を追い求めるのではなく、結果として「あの人は信仰を深く持っている」と証言されるようになることが大切です。わたしたちが立派な人になることによって聖霊の風が吹くのではなく、信仰を持つ者同士が祈りと御言葉を大切にすることで聖霊の風が吹くのです。例えば、戸塚教会の週報にある祈りの課題において午前6時あるいは午後10時に祈りを合わせるということと、日々の御言葉について書かれておりますが、同じ時間に心を合わせて祈ること、そして日々の御言葉を共に読むことができる、これは大変恵み深いことです。祈りと御言葉をこうしてみんなで重んじていくことができれば、そこに必ず聖霊の風は吹きます。使徒たちは、選ばれた7人に手を置いて祈りました。この「手を置く」という行為は、旧約聖書の創世記にも見られるように、祝福の祈りです。ルカは、旧約聖書を直接引用しない場合でも、その背景に旧約聖書の思想を反映させています。このように、初代教会は問題に対処しながらも、弟子たちの数は増え続け、神殿体制の中にいた祭司たちも信仰に入っていきました。
イエス様に従っていく祭司が出てきたということはイエス様に従うという選択をしなかった祭司たちも当然いるわけです。この箇所のすぐ後にステファノの殉教が出てきますが、そのような物語で示されているように使徒やステファノたちに対立するユダヤ教の人々の存在もあります。ステファノたちがそうした人々と対峙していくのに特別なことは用いませんでした。旧約聖書からまっすぐにメッセージを語り、旧約聖書を本当に体現したのはイエス様だということを堂々と証したのです。わたしたちは共同体を建てあげるために特殊な賜物があればいいのにと思うときもあるかも知れません。しかし聖書に登場する人々はまっすぐに御言葉を大切にしてきました。
最後にパウロの話を少ししたいと思います。皆さんはイエス様の再臨の日に誇るものがあるでしょうか。パウロは誇れると書いています。しかしそれはパウロがこういう奉仕をした、こういうメッセージをした、そうしたことを誇ると書いていたのではありません。弱さを誇る、苦難を誇る、主を誇る、というのもありますが、コリントの信徒への手紙二1章13-14節にこのようにあります。「わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。」
パウロはコリントの信徒たちにイエス様に共に従う共同体を誇りとすると書きました。コリントの教会はどちらかといえば問題が多く、様々な問題をパウロは指摘しています。しかしそれでもコリントの信徒たちは神様によって清められ、主の日にはパウロが共同体を神様に誇ることができる、そのように書いたのです。これはわたしたちにもとても励ましになる箇所です。わたしはイエス様の再臨の日を楽しみにしています。皆さんと形作っているこの共同体を誇ることができるからです。神様を共に礼拝し、御言葉に学び、イエス様に従っていく、そんな共同体をこれからも皆さんとつくっていきたいです。
使徒言行録6章1-7節は、教会が直面する問題に対処するための原則を示しています。祈りと御言葉を大切にすること、信頼できる人々と役割を分担すること、そして弱い立場にある人々を大切にすること。これらの原則は、今日の教会にも適用されるべきものです。
【井東元】