横浜戸塚バプテスト教会

Japan Baptist Convention Yokohama Totsuka Baptist Church

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週報の巻頭言(2018年11月25日)

   

聖書『ヤコブ2:14~26』

「信仰を働かせる」
「神が私達の父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に捧げるという行いによったのではありませんか」(21節) キリスト者の人生は、神が心を込めて造られた珠玉の作品です。それは、地上には二つとない貴重な織物に似ており、また縦糸と横糸で出来ています。縦糸は永遠の神への信仰、横糸はこの世における行いです。▼死んだ信仰とは、行いの伴わない口だけの信仰であり、また生きた信仰とは実践と行いが伴うものです。信仰を単に保持しているだけでは不十分です。信仰を働かせる事です。「宝の持ち腐れ状態」としてはなりません。▼その鮮やかな体現者がアブラハムです。彼は愛する独り子イサクを神に献げました。それは、いかに辛く苦しい決断であった事でしょう。現実の過酷さ、得体の知れない不安感、不条理、人生の疑問の数々が襲ってきたかもしれません。それでも、彼は毅然としてイサクを連れてモリヤ山を登って行きました。▼なぜ、彼はこの厳しい命令に従う事ができたのか。その秘密を解くカギがヘブライ書11:17 にあります。「信仰によってアブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました」「献げました」は「完了形」ですので「アブラハムは以前からずっと、子を神に献げる覚悟をしつつ生きた人」だった事になります。神の命令は突然、青天の霹靂のようなものではなく、日々、自分の命よりも大切な存在を、神にお返しするという僕としての生き方を続けていたのです。▼また、神はこの山影に一つの雄羊を用意されました。その雄羊はイエスの予表です。肉親としての悲しみに沈みそうなアブラハムの心の痛みを熟知された神は、隠された所に、絶対的な救いを用意されました。「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり」です。それ故に、私達も、この信仰に立って、いかなる時でも「大丈夫だ、主によって」と宣言する事が出来るのです。孤独感と悲しみにも襲われていたであろう人生はこの二つが必要です。例えば、いつも百点ばかりとってくる優秀な子供が、ある時、悪い点数をとった時、親が厳しく叱ると、子供は自信を失い、親の顔色を伺うようになる危険性がある。どんなに最悪の時でも、「大丈夫」という言葉が大切であるように、神は私達を「常に完全で理想的な行いをしなさい」とは言われない。むしろ、あるがままの私達を愛し、受け入れて下さる。信仰とは、この愛の神を信じ受け入れる事である。▼しかし信仰さえあればそれで良い訳ではない。この世を無視して、たこつぼの中に隠れてしまうたこのように逃避的な生き方はいけない。私達は厳しい現実の中で、もまれながら成長していくのである。▼ 信仰と行いが調和している事が大切である。その良いモデルがアブラハムである。年老いて奇跡的に生まれた独り子イサクの成長を心から喜んでいたが、ある時、神はその子を捧げよと命じられた。そこで、彼は黙々とモリヤの山に登って行った。そしていざ、イサクを屠ろうとした瞬間、「待て!」と神は止められた。このイサクからアブラハムの子孫は星の数のように広がっていった。▼その時、アブラハムは神への疑い、不満、怒りに心中にわだかまりとして残っていたのではない。彼は日々、神に愛する子の命をその人生を、神にお返ししていた。いつどんな事があっても、神の愛は不変である事を固く信じていた。ここにこの稀有な人物の偉大さがある。
牧師 犬塚 修

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